今日は(今日も?)雑談回。ボヤくのはジジイになった証拠です。さてッ!

その黎明期を終え、日常用途としては十分に成熟した性能を有するデジタルカメラ。それでも未だに新製品発表が途絶えることはないし、その度に広告は最高のライフスタイルを提案してくれる。「あ、これは絶対に欲しい…」と何度刷り込まれただろう。スマホの登場から早10年。今や全国民カメラマン時代。写真の寿命はタイムライン上で1秒ともたない時代。果たして、カメラで溢れた世界で写真を撮る意味などあるのだろうか?…そんなことを考えてみた。

1.写真と時間。

撮影してから時間が経つほど、写真の価値は重くなる。

私は木村伊兵衛が好きだ。理由は単に70年近く前であるにもかかわらず「秋田おばこ」が超絶美人だからだという脊髄反射反応であることはさておき、木村伊兵衛の写真を振り返る古いドキュメンタリー番組を見てなお好きになった。

「秋田おばこ」は1:50〜

そもそもカメラ自体が希少だった時代に、そこに生きる人々の生活感を記録した木村伊兵衛。文章にするとなんと陳腐なことか。しかし日本で誰もやったことがないことを確立した木村伊兵衛。日本写真史の入口に鎮座するその撮影スタイルは時間が経つほどに価値を増すに違いない。0を1にした功績は大きい。

しかし時は令和。冒頭でも触れたように今や誰もがカメラを持っている。カメラなんて当たり前。スマホには前にも後ろにもカメラが付いている。絶対数で溢れかえった今、そこから吐き捨てられる写真の価値は如何程だろう?その使われ方は時の試練に耐えうるのだろうか?人はゴミ箱に投げ捨てた鼻紙をいつまでも覚えておくことなどない。写真もそうなっていないだろうか?

2.写りたくない人。

家にいながらオンライン会議に参加する時代になるなんて誰が想像しただろうか?しかしこの1年で多くの人が否応なくZoom1年生になった。だからこそ顕著に現れた現象、一定数写りたくない人種が存在するという不都合な真実がやはり気になる。決まり悪そうに画面の端に陣取る人。もはや肩で切れて顔だけ不在の人。家の中なのにマスクで顔を隠す人。そもそも画面OFFを決め込む人…etc。目は口ほどにモノを言う、改め、画面は口ほどにモノを言う。つまるところ写りたくないのだ。お察し申し上げたい。

  • だって面倒だ。
  • そういうのはパリピと陽キャがやれば良い。
  • どうせ私は写り映えしない。
  • そもそもあんたに関係ないだろ。

…果たしてそうだろうか?(これは結果論でしかないが)カメラを弄る側の意見からすると、スマホなんかで人間を写すからブサイクになるだけの話だし、知識とお金があれば写り方なんてどうにでもなるのに。でもそんな正論はきっと役に立たない。99.9%の確率で生活費の方が重要だし、ライティングの知識なんて知らなくても生きていける。そもそも他人の見た目なんて確かにどうでもいい。きっと問題はそこじゃない。カメラが庶民に普及したことで単にライフスタイルが複雑になったんだ。結果みんなストレスと友達になった。写りたくない人が増えても当然だ。

だったとしたら、もう写真や映像なんて広告と監視カメラだけでいいのでは?カメラが人を疲れさせる道具になっている時代に、あえて迷惑行為を推進する理由はあるのだろうか?

3.ブラックミスト流行の理由。

別談。ここ最近よく耳にするブラックミスト。詳しくはシノタク氏の動画で分かりやすく解説されていたのでご参照あれ。(これが本当に嫌味なく客観的に説明してくれる素晴らしい動画だった。) 要は手軽に非日常なシネマチックを演出できるフィルターが流行っている…らしいのだ。私の周りの若者も同じことを言っていた。どうやら欠品続きらしい。ブラックミストを使った写真は確かにかっこいい。これは流行るのも頷ける。

チックってなんやねん。

おじさんは思うのだ。シネマチックってなんやねん!「っぽい」ってことだろうか?いや私に聞かないでくれ。少なからずこの流行が本物のシネマを目指す潮流ではないことは間違いない。ここで疑問が湧くのだが、そんなに映画っぽい雰囲気を出したければオールドレンズ使えばいいじゃん。今のカメラメーカーは満場一致で高解像・高画質路線。わざわざそんな高性能機材を揃えた後にだ、あえて逆行して色を崩したいのなら、最初から古いものを使えば一発で画質劣化できるのに。マニュアル操作だけど。さらに、撮影データを写真ならRAW・動画ならLogで撮影して後で編集すれば如何様にもなるのに。ん、もしかして不便益は嫌なのか?あくまでスマートにシネマっぽくしたい…と。

矛盾の面白さ。

カメラが溢れた世界ではカメラ機材は高性能を謳わないともはや売れない。でも実用上そんな性能は必要でもないらしい。だから高性能製品をディフューズさせる商品が飛ぶように売れる。滑稽だけど需要があるから成立してる。ここが面白い。本当はこれ以上カメラの性能を上げる必要はないのだろう。大切なのはスペックではなく、カメラを持っている人間なのだ。感受性に富む若者の体が答えを出しているじゃないか。それでもメーカーにとっては儲けてなんぼ。同じ畑でメーカー同士がスペック勝負している現状では日本版ライカはきっと生まれない。今後技術を中国に吸い取られた後、日本のカメラメーカーに果たして未来はあるのだろうか?

一旦まとめ。

御託を並べてみたものの、それでも私はカメラが好きだし写真が好きだ。好きだからどうしようもない。だって好きなんだもの。

少し肉付けするならば、写真の魅力は「撮った日が記念日」であることだと思う。そして「良い写真」とは「伝わる写真」だと。素敵な思い出を永遠に自分のものにしておきたい。思い出を即物化して所有したい。コレクションしたい。

と考えると、カメラでごった返した世界で写真の価値が下がるのを危惧する事そのものが無駄というか、そんな比較でメンタル削られるのが単純にモッタイナイ(mottainai)ように思えてくる。どれだけ悩んでも・悩まなくても、綾小路きみまろに言わせれば「人間の死亡率は100%」なのだから。だったら悩まない方が良い。とはいえ程度あれども“悩める”から面白いのもまた然りであり、舌の根も乾かぬうちのこの変わりよう。うん、どっちなんだ君は?

なんで写真を撮っているかなんてフワッと分かったつもりで(分かったチックで)楽しんだ方がいいのかもしれないし、今後の余生で考え方が変わる可能性だってある。だから「一旦まとめ」で余白を残しているのが事実だとしても、なにを恥じようか。

駄文に最後までお付き合い頂き、誠に感謝申し上げます。オチもヘッタクレもないですが幕引きです。この手の話題はブログじゃなくて飲みの席でって、それを言っちゃぁ〜お終いよ。では諸君、良き写真LIFEを!かしこ。

ブログ管理人:isofss(イソフス)