午前3時半だった。
斜め向かいのアパートから聞こえる怒鳴り声とドアを蹴る音で目が覚めた。
「うるせ○/△※×□この◇●<!!」ドンッ!ドンッ!
こんな時間の癇癪は初めてだったが、こうしたことは前にもあった。呂律が回っていない叫び声の主はこのアパートに住むおじいさん。怒りの矛先は出稼ぎで同アパートに住む海外の女性だ。老齢のためか?酔っているのか?その両方か?起き抜けにおじいさんの言葉を読み解くのは難しいのだが、どうやら女性の生活音がうるさいらしい。その仕返しとして恫喝しているという様子だ。いやいや、うるさいのはあんたの方だが…と頭の中でツッコみつつ、完全に目が覚めたわけでもなく枕を耳栓にして微睡んでいた。申し訳ないが私は早く寝たい。
しかし怒りが収まる様子はなかった。流石に誰かが通報したのだろう。しばらくしてパトカーの赤色灯で私は目が覚めた。カーテンを少しだけめくり結露したガラスの向こうの出来事を注視する。寝起き眼には歩く懐中電灯が2・3見える程度なのだが。おじいさんは落ち着いたようだ。警官にカタコトで状況を説明する女性の声は震えていた。民事不介入ではあったとしてもだ、こういう小難しい状況での彼らの仕事さばきには敬意を感じた。
撮りたい。
カメラは手元にあるのだ。しかし「撮ってどうする?」と問われれば答えに困る。ただ撮りたい。ほとんど大半の人に理解されない欲求であろうことは百も承知している。…いや待て、詭弁だな。写真である以上アウトプットが必ずあるし、胸の奥底では「今の時世を記録して表現したい」という欲求が確実に根付いている。それが本心だな。例えそれが人様のネガティブな出来事であっても、だ。私はうふふあははのお花畑を撮りたい人間ではない。
ただ、そんな写真が世の中に必要とされるかどうかは別の話だとも思う。いい例が今年のFUJIFILM、X100VのPV問題だろう。人の嫌がる表情を自己表現とした写真家に対するバッシング、世間に迎合して写真家を即座に切り捨てたFUJIFILMの英断まで含めて、写真の価値を貶めかねない皮肉なショーに見えた。今しがた自分がやろうとしていることはそれと何が違うのだろう。
とはいえだ(自問自答のグルグル、感覚値でこの間約1秒なのはさておき)世間体を優先した写真に価値などあるのだろうか?極論だが、見た人全員を納得させる写真家なんて存在しないし、理不尽があるから報道カメラマンや戦場カメラマンというジャンルは存在し得るのだと思う。仮に世界中から争いが消えたら記録写真の存在価値などなくなってしまう。生きとし生けるもの全員がリア充になったらインフルエンサーは廃業に追い込まれてしまう。ええと何の話だっけ、これは。
シャッターを切る覚悟。
結局、その夜中のドタバタ劇を記録することは出来なかった。
もはやスナップ写真の範疇を外れているような気がしつつも、詰まるところは覚悟が足りなかっただけの話。果たして何がやりたいのか?写真を通して何がやりたいのか?それを本当にやりたいのか?なぜやりたいのか?これらの基本的な問いに即答できる人間であったなら、惜しみげもなくシャッターを切っていたのだろう。
「写真はセレクトだ」とはよく言ったものだ。選択は常日頃から始まっている。その選択の積み重ねの末に覚悟は宿るのだろう。
撮るものを選べ。選べ。悩み抜いて選べ。
悩むことは生きてる証拠。では諸君、良きスナップLIFEを!
ブログ管理人:isofss(イソフス)